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2代目談洲楼 燕枝(だんしゅうろう えんし、明治2年2月25日(1869年3月18日) - 昭和10年(1935年)7月6日)は江戸の落語家。本名は町田 銀次郎。 芝仲門前の法衣屋嶋屋久兵衛の子で生家が没落し親戚の家に預けられる。その頃に素人の芸人一座に入り燕雀を名乗っていた、のちに初代快楽亭ブラックの一座で快楽(またはシュラク)を名乗り地方廻りをする、東京に戻ったのちに2代目禽語楼小さんの門で柳家小山三、さらに師匠小さんが柳家禽語楼を名乗り、弟子の初代柳家小三治が3代目柳家小さん襲名して小三治が空いたため、2代目小三治を名乗った。その後1897年に小燕枝、1901年2月に初代燕枝の一周忌に柳亭燕枝を襲名し、1904年12月に亭号を談洲楼と改め、2代目談洲楼燕枝となった。 人情噺を得意とした。落語は面白くなかったが聞く人が聞けばまことに結構な芸だったという。 下谷西町に住んでいた事から「西町の御前」と呼ばれた。 1934年3月11日に「雪の杖 道問う人に 譲りけり」と引退の句を残し日本橋俱楽部で引退興行を行なった。その後は下谷同朋町に芸者屋のご隠居の身になり隠居した。丹毒症で亡くなった。 実の長男が歌舞伎役者の2代目中村歌門といい、その妹が前進座創立者3代目中村翫右衛門の妻。 弟子には5代目(3代目とも)春風亭柳好、6代目林家正蔵、4代目三升家勝次郎、3代目瀧川鯉かん、入船米蔵(板橋啓次郎)、3代目柳亭燕枝、漫才に転向したリーガル千太等がいる。 == 参考文献 == *諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X *古今東西噺家紳士録 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「談洲楼燕枝 (2代目)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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